青山ひろし35歳の春第4回

彼は悩んだ、それほど深く悩んだわけではない。ちょっとだけ悩んだというべきである。

制限時間内に走りきれる自信はない。かと言って、京都マラソンを走る権利をあの部長に手渡す気にもなれない。やはり自分の足で走ってみたい、という結論に達するのに、それほど時間はかからなかった。

そう結論に行き着いてしまうと、いっそう日々の練習に力が入った。1日に7〜8キロの距離がいつの間にか12キロまで伸びた。疲れは蓄積するが、それはいままでにない疲労感であった。夜は早く眠ってしまう。それでも一晩の睡眠で、疲労は回復した。このサイクルの中で、前向きな生き方が再生産され、何事においても積極的になれた。

「あおやまくん?僕だけど、わかる?」
「えっ?部長でっか?」
「そうに決まってるじゃん!僕だよ。今日はなにか予定ある?」
年が明けたある日曜日に例の部長から電話が入った。

「別にこれといった予定はありまへんけど、ちょっと走りに行こうかなと思っていたところです」
「そー丁度よかった。君も知っているとおり、僕は京都ちょんがー暮らしだからさ、一緒に練習でもしようかな、と思ってね電話してみたんだよ。どう、今からそっち行くから、一緒に走りに行かない?」

「え!部長とでっか・・・・・・。そりゃまあ、別にかまいまへんけど・・・・」
「気が進まないようだね。でも、いろいろアドバイスもしてあげたいしさ、ね、一緒に練習しよう、ね。いまから、そこまで行くから待っててね!」
「はーわかりました。ほなら、準備して待ってます」

部長は、15分くらいたってから、あおやまひろしの自宅にあわられた。そして二人で鴨川の河川敷に向かった。こうして、毎週日曜日なると部長と一緒に鴨川の河川敷で一緒に走るようになった。それまで、足の赴くままに漫然と走っていたあおやまひろしではあるが、練習にもいろいろな種類があることを知った。

部長はいちいち、ていねいに走り方を教えてくれた。給水の摂り方まで指導してくれた。
「えーか?こうやって紙コップを折って、飲み口を作れば飲みやすいやろ」
「な〜るほど、ほんまそうでんな」

いよいよ2週間後に京都マラソンが迫ってきた日曜日に二人で、コースの試走をした。試走のアト、平安神宮の鳥居に到着したアト、あおやまひろしは、部長に聞いてみた。

「部長は、なんでこんなに熱心に僕と一緒に練習をしてくれはるんでっか?」
「ふ〜、今日はけっこう疲れたね・・・・くたくただよ・・・も〜だいぶ・・・・いやね、君に是非完走してもらいたいからさ。」
「そーかて、最初は、自分に代われって、ゆーてはったやないですか。今でも、そう思うてはるんちゃいまっか?」
「そうやね、その気持ちもないこともないが、今では、本当に君に完走してもらいたいと思ってるよ。自分で走って完走するのも嬉しいとは思うが、一緒に練習した君に完走してもらうのも同じように嬉しいような気がしてね。今では本心からそう思ってる。京都の街での思い出作りだよ」

「えっ?なんでっか、えらい部長に似あわへんこと言わはるやないですか?」
「いちいちうるさいね。だからいいの!頑張って完走してよ!完走できなかったら、仕事減らすよ!」
「うへー!やはりちっとも変わってまへんわ!」

「まったく口の減らん弟子や!でも、今の君の実力なら、充分完走できるはずや!次にスタート直後のバトル状態での格闘技を説明するわ」
「え!マラソンって格闘技でっか?」
「そ〜や、格闘技や。えーか、右から膝が飛んできたら・・・・・」

こうして平安神宮の大鳥居の下で、蹴りや突きや受けの練習を始めた二人は、周囲を歩く人達に少し恐怖を与えながら、昼過ぎまで練習を繰り返したのであった・・・。

おおやまひろしは、だんだんこの部長が好きになってきた・・・・。

仕事の上では、いろいろこまかな注文をつけて、あおやまひろしを困らせる事もたびたびだったが、いざ、一緒に走るときには、的確なアドバイスで解りやすく指導してくれた。

それに、部長の熱心な指導なおかげで、なんとか完走できる自信らしきものもついてきた。今では、制限時間内での完走が目標というよりは、4時間30分くらいで走る事が目標となっていた。

京都市条例違反の裏技、「人を捜すふりをして」、さっさとスタートラインの前方に素早く移動するという技も身につけた。

とは言っても、初マラソンである。本当に部長の言うように走れるかどうかは走ってみなければわからないという不安はぬぐいきれなかった。

11月に273キロを走りこみ、12月はとうとう300キロを超えた。忙しい仕事をこなしながらの練習であったから、ここまで走れるようになったことに誇らしい気もする。生活も随分変わった。夜は早く寝て、朝早く起きだして走りにでかけた。

いよいよ今週末がマラソン本番という月曜日の朝、いつものように早朝練習をすませて、仕事をしていたら、部長の会社の次長が、あおやまひろしの職場に顔を出した。この次長はもっぱら、部長の右腕と言われている人で、この業界ではけっこう名前の知れた人であった。

大手商社を定年退職したアトに今の会社に再就職した人で、例の部長も、この人にだけは何でも相談して決めるという噂の人だった・・・。